第四回公判 Aの最終意見陳述

第四回公判でのAによる最終意見陳述です。

私は、自分の無罪を主張します。


私は取調べを受けることを拒否しました。それは、被疑事実が現実に起こったこととあまりにかけ離れていることをふまえて、警察・検察の取調べによって存在しない「犯罪」をでっちあげられることを避け、自分の身を守るために権利行使を行ったに過ぎません。検察の起訴した公訴事実は、最初に検察が提出してきた供述調書の内容と明らかに異なるものであり、検察が意図的に飛躍させたものです。例えば、公訴事実は、「被害者」本人の供述調書の内容からすら乖離して「着衣の上から左胸を右手でつかんで揺する等の暴行を加えた」というものへと変化しており、裁判中の証言では「左胸についていた市章を2、3本の指で1〜2秒つままれた」というものであり、まったく違うものでした。


また、地裁の許可した保釈請求に対し、二度にわたって抗告を行った検察、保釈を却下した高裁に対して強く抗議します。検察は、応訴様態が悪いというのを抗告の理由の一つにあげていましたが、私は、そもそも日本の法制度上認められているはずの黙秘権を行使し、あるいはやっていないことをやっていないと主張しているのであって、そのこと自体が保釈の権利を否定する理由として認められ、長期の勾留が許されるのであれば、それは権利を行使している者に対する肉体的・精神的な嫌がらせであり、裁判の準備のためにも困難を生じさせる被告人に対する検察の妨害が認められるということにほかならず、看過できるものではありません。


さらに検察が当初「類似の犯行が横行している」という主旨を持って追加で提出してきた証拠は、今回の事件とは直接関係のない、過去に市民によって行われた抗議行動の様子を示すものでした。抗議行動の存在を「犯行」と称して、私の逮捕と関連付けた上で否定され、罰せられるべきものだとする検察の認識は、市民の抗議の声そのものを警察力をもって抑え込むぞという政治的な恫喝にほかなりません。


私は、存在しない犯罪をでっちあげて私を逮捕させた京都市および逮捕した警察と、自転車利用者が京都市の自転車撤去事業に対して異論を持つ行為そのものを封殺するために、見せしめとして起訴した検察に対し、強く抗議します。


私が京都市の自転車撤去に抗議し、反対する理由を、改めて述べます。


自転車は我々貧乏人にとって、日常生活を支える大切な乗り物です。それに対して、京都市の自転車政策は、私たちの生活の現実を全く無視した横暴なものだと言わざるをえません。まず、京都市には根本的に駐輪場が全く足りていません。店に買い物に行っても、路上以外に駐める場所はなく、公共交通機関として多くの人が利用し、設置義務もあるはずの駅にも駐輪場はほとんどない。京都市は、現在存在している駐輪場の収容能力が足りずに路上で駐輪するしかない自転車が出ざるをえないことを市のホームページで公に認めており、それに対して、公共交通機関の利用を市民にすすめるという対応しかとっていません。しかしそれは、金を持たない者には道がないということですし、人々の生活の現実を全く理解していない。かつて無料だった駐輪場は、どんどん有料駐輪場へと作り替えていくという宣言が、2000年に策定され、2010年に改訂された京都市自転車総合計画の中ではなされ、また、数少ない有料駐輪場はいつも満車で、現実的に駐輪可能な場所はありません。他に駐める場所の無い者、あるいは金を持たない者が仕方なく路上に駐めた自転車を、京都市は年間三億円近い予算(今年度2億7599万7千円)を使って片端から運び去り、返還を求めれば遠い保管所に足を運ばねばならない上、高額な保管料を請求されます。それだけの予算が使われながら、無料駐輪所が整備されることはなく、京都市の事務事業評価票によると、京都市が年間の撤去台数の目標値として定めた数字は、毎年激しい幅で上昇していくばかりで、2011年度にはついに10万台を越える撤去を行うという宣言がなされました。人口160万都市の京都市で、10万台撤去するというのは、つまり、16人に一人が、一年に一度は自転車を撤去されるという計算になり、その激しさを物語っています。


自転車の撤去が、生活に及ぼす影響というのはとても大きなものです。日常生活に深く関わるが故に、自転車が一度撤去されると、日々の生活の予定は大きく狂います。また、経済的なダメージだけでなく、自転車が盗まれたに等しい精神的なダメージと喪失感を人に与えます。有料駐輪場が仮に十分な収容能力が確保されていたとしても、例えば、毎日の仕事に行くために利用する駐輪代というのは、職場や学校などから交通費として支給されることはなく、結局、利用者が自腹を切らざるをえません。一日の駐輪代が例えば150円だったとしても、自転車というのは毎日のように利用するものですから、一ヶ月、一年と積算すると、それは生活にとって、大きな負担となります。


「この街に自転車を駐めたければ金を払え、さもなくばお前の自転車を強奪する。」これが京都市の論理です。これは、端的に言って脅迫です。そもそも、自転車利用者から金をとるというのは、金を持たない者を自転車の利用から疎外するということであり、貧乏人から移動の自由を奪うということですから、明らかに経済的な差別です。京都市は、全く金を持たない者に対しても、移動の自由を保障しなければならないはずです。貧乏人こそが自転車を必要とするのに、貧乏人は自転車に乗るなというのでしょうか。


一年前、私は失業してハローワークに通っていました。烏丸御池ハローワーク前、ここは公共の施設なのに駐輪場はなく、その上自転車で来た来所者がハローワークの前の路上に駐輪できないようにするために、わざわざバリケードで囲ってあります。これは、自転車撤去条例の手前、路上駐輪できないようにしたものですが、おかしいとは思いませんか。失業して、バス代や電車代を払うのも苦しい人々が、仕事を探すために訪れたハローワークに駐めた自転車を、京都市は平気で持ち去っていってしまうのです。あるいは、アルミ缶回収や廃品回収で生計を立てている野宿者が自転車を撤去されてしまえば、それは、生きる手段を奪われ、生存権を脅かされることを意味します。京都市が自転車撤去を通じてやっていることは、人々の生活や生存の破壊です。


最近の京都市は、ますます高圧的に撤去の強化を叫ぶばかりです。今年度からは土日と夜間の撤去も始めました。鴨川条例が出来たのとほぼ同時の数年くらい前からは、それまで行っていなかった、鴨川の河川敷に駐めている自転車も撤去するようになりました。彼らが行っているのは、自転車をただただ物理的に目に見えない所に追いやり、金持ちの差別的な主観でしかない「美観」なるものを守ることです。それは、恣意的な「モラル」や「ルール」の名の下に、それを守らない人間への憎悪を煽り立て、生活者の論理を圧殺することによって、街を金持ちの論理のみが支配する、金持ちのための空間として作り替えることです。ここ京都において、「美観」「観光都市」などの言葉が強調される一方で、貧しい者、持たざる者を苦しめる法律ばかりが次々と通っていく。昨年は、何十年も昔からずっと続いてきた誇りある野宿者の仕事を、生きる手段を奪うなという激しい反対の声を黙殺して、アルミ缶回収で生計を立てる野宿者への偏見を強く煽り、苦しめるアルミ缶回収禁止条例が通りました。その前には、古くから人々の生活空間として利用され、親しまれてきた鴨川を、金儲けのための観光資本とするために、住民が自由に河川を利用する権利を大きく奪った鴨川条例が通りました。


鴨川条例に関連しては、その政策立案に際した議論の中に、具体的には2007年1月に出された京都府鴨川条例(仮称)検討委員会検討結果報告書という文書(http://www.pref.kyoto.jp/kamogawa/resources/kenntoukekkahoukokusyo.pdf
の中に、「ホームレス、放置自転車、バーベキューなど、快適な利用を阻害する事象については、条
例で厳格に規制するべきである。」という文言があります。これは、そこに生きている人間、鴨川なら橋の下などに生存を求めて生活している人々を、地域住民としてではなく、「放置自転車」やバーベキューなどと同じ、「快適な利用を疎外」する、ルールやモラルを守らない「迷惑な物体」として認識するということです。鴨川条例は、このような悪質で差別的な人権感覚を元に作られている条例であり、その目的が野宿者の排除にあることは明白です。このことは、自転車を迫害する論理と、人間を迫害する論理は、一体のものなのだということをよく示しています。ちなみに、この文書は、現在でも、京都府のホームページに堂々と載せられ、野宿者に対する偏見と憎悪を垂れ流すことをやめません。


自転車撤去条例も、このような背景の中で作られたものです。条例が制定された大きな理由の一つに、京都市のある市会議員の「観光地に放置自転車があるのは美観として好ましくない」という言葉があったことを、市の職員が明かしています。誰のための「美観」なんでしょうか。守られようとしているのは誰の「快適な利用」なんですか。そこに生活者の視点はなく、人間の生きられない街の風景は、美しいものではありません。


自転車撤去の理由の一つとしてもあげられていますが、路上に駐められた自転車が、車いす使用者や視覚障害者などにとってバリアとなりうることは事実です。しかし、この観点から見ても、現行の京都市の自転車撤去事業は解決になっていません。無料駐輪所などもなく、路上に駐輪をせざるをえないという事情が変わらない以上、どんなに撤去を強化しても、路上駐輪がなくなることはないからです。交通強者である自動車が路上の大部分の空間を支配して、その問題が問われることは全く無い一方、その他の交通弱者が狭い空間をめぐって対立を強いられるという現状があります。現行の自転車撤去事業は、そういった問題を隠蔽し、現状を正当化するために障害者などの交通弱者の存在をアリバイとして利用するばかりで、すべての人々の移動の自由を真に保障していくための思考は閉ざされてしまっています。


8月26日、私が抗議していた相手は、京都市の嘱託職員でした。嘱託職員とは、京都市正規雇用だった職員が、60歳の定年退職後に再任用されたものです。彼らは、京都市の土木部自転車政策課に所属する公務員であり、市民の声に耳を傾け、市政に反映させていく責務のある立場の人々です。私は、現場の市職員に対して、対立を求めて抗議した訳ではなく、京都市の自転車行政の問題点を指摘し、その声を市政にフィードバックさせていくことを求めていました。また、京都市は、自転車撤去事業において、業者による単年度ごとの契約の中、毎年毎年安い下請け料を提示して競り勝った業者と契約するような形をとっています。そしてその下請け業者は、別の派遣業者に依頼して、現場で実際に作業する労働者を集めます。例えば、元請けの京都市が、下請け業者に8000円の金額を払った場合、直接労働者を雇用していない下請け業者が、その8000円から800円ピンハネし、さらに、派遣業者が、1600円ピンハネし、現場で働く労働者は、合計2400円もピンハネされて、最低賃金ギリギリの、5600円しか支払われない、といったことが現実に横行しています。現場の派遣労働者は、二重に搾取される上に、その雇用は非常に不安定なものにならざるをえず、そのようなやり方を選んでいる京都市の姿勢についても、私はおかしいし、変えていくべきだと考えています。


現場の下請けの作業員は、逮捕前までアルバイトで生活していた私と、とても近い立場にある人々です。私は、京都市の自転車行政には反対ですが、下請け労働者や、京都市の嘱託職員の雇用は確保されるべきだと考えます。自転車撤去という行為が持たざる者への差別であり暴力である中で、京都市の職員にしろ、下請けの作業員にしろ、人々の強い敵意にさらされ、憎まれる立場を、生活のために労働として強いられ、互いに対立させられ、分断されているという構造があります。私は、人々が互いに生活を破壊しあうことのない、すべての人の移動の自由を保障するような自転車政策を、求めます。